ネットニュースやSNSで「元JW2世」という文字に反応して自分の半生を振り返ってみた

エホバの証人という宗教団体を皆さんはご存知だろうか。彼らは「JW」と表記される。

「JW2世」は親が信者であり、自分もその道を歩む人。

「元JW2世」は団体から離脱したJW2世だ。

 

最近何度かYahoo!NEWSで元JW2世について書かれている記事を目にした。胸が痛む。まるで我が事の様に。

Twitterでも元JW2世の方を見かけた。

 

何故この話題に触れるのか、それは僕が「ある程度」該当するからだ。

しかし、僕の人生に与えた影響は「ある程度」どころではなく「計り知れない」と表現したい。

何を書きたいのか分からない感が既に溢れてきていますが、でも書いてみます。

 

 

我が家の場合

僕は両親と兄、姉の5人家族、3人兄弟の末っ子としてこの世に生を受けた。母は僕がお腹の中にいる時からJWを志す研究生だった。

 

母は、それは必死に僕ら兄弟を「集会」と呼ばれる集まりに連れて行った。集会とはJWの勉強会だ。それは週に3回もあった。

僕は物心ついた時から参加していた。殆ど寝ていたけど。

 

父はJWを信じていなかった。当初は「快く思っていない」程度だったそうだが、その反対は激しくなっていく。ま、そりゃそうだなと。

 

 

ハルマゲドンと楽園

幼い頃の記憶は断片的だが、印象的だったのは「ハルマゲドン」「楽園」と呼ばれるものだ。

JWの教えの中にある終焉と新しい世界の到来。この世の間違ったものがハルマゲドンで滅び、JWに永遠の楽園が訪れるというものだ。これこそが彼らの行動原理なのだろう。

ちなみに「滅びる」の中には非JWの人全ても含まれているから恐ろしい。

 

幼い僕に母は本を広げてそれを教える。その本には非JWの人々が滅びる様が生々しく描かれた挿絵があり、僕は恐怖のあまり泣き出した。

「エホバを信じないとこうなるよ、でも信じていれば楽園に行ける」という教え方だが、恐怖を用いた古典的な手法だなと今は思える。

そんな刷り込みが続いていくのだ。

 

 

父の反対が激しくなる

母のJW熱の上昇と父親の心配は完全に比例していた。

 

ある夜、母と兄弟で集会から帰宅し、玄関を開けたら父が鬼の形相で待っていた。

そしていきなり母親をぶん殴った。

母は吹っ飛び倒れる。

それから父はドスの利いた声で物凄く怒鳴りつけた。母はうずくまり泣いている。

 

子供からしてみれば衝撃的な画だ。幼い僕には正直、ハルマゲドンの挿絵より「この世の終わり」に感じられた。もうこっちも泣き喚くしかない。

玄関の外に僕ら4人は残され、ドアは施錠された。大粒の雨が降る寒い夜だった。

 

その晩は物置で一夜を過ごした。

雨粒がボタボタと物置の屋根に叩きつけられる音を覚えている。

次の日には家に入れてもらえたが、父と母は口もきかない。僕ら子供もどうしていいか分からない。

 

「夫婦喧嘩は児童虐待」というが、それは本当だ。親に依存するしかない、親が全ての幼い子供の心に深い傷をつける。暴力そのものだ。

「夫婦喧嘩は犬も食わない」なんてカワイイものじゃない。

 

その後も父の反対は続いた。

相変わらず母はぶん殴られた。

雨の日にJWの書物が庭へぶちまけられていた日もあった。凄い量だった。

母は泣きながらそれを片付けていた。

 

僕は何が正しいのか分からなかったけど、ただひたすらに悲しかった。

多分エホバの存在の是非より、父と母に仲良くしてほしかったと思う。

 

 

幼稚園は孤独の始まり

幼稚園という集団生活が始まり、僕は孤独感を抱き始めた。まず、殆どの子が一緒に遊んでくれなかった。

 

「なかまにいーれて」と言って入れた事は少なかった。

「ウチのお母さんがお前と遊ぶなって!」

とも言われた。多分我が家の事が噂になっていたのだろう。でも当時の僕はそんな事知る由もない。

 

僕も子供なりにフラストレーションがたまっていたのだろう。

ある日仲間に入れてくれず、更に罵ってきた子を近くに落ちてた棒切れでぶん殴った。

相手は額の左端が切れ、大泣きした。

現在なら大騒ぎだろうが、普通に謝って済んだ。もう40年近く前の昭和の時代だからかな。

 

「仲間外れにされて怒って棒で殴った」

そこだけがトリミングされてみんなの記憶に残る。僕の不健全な環境の事なんて誰も知りやしない。

きっとヤバい事件を起こした犯人達もこんな心境だったのかなって思える。

子育ての環境がいかに大切かはこうやって教わったんだなぁ、きっと。

 

 

JWは誕生日を祝わない

幼稚園では誕生日を迎えた子がプレゼントを貰った話をして喜んでいる。誕生日がそんなに特別な日だったなんて初耳だ。ちなみに僕は自分の誕生日も知らなかった。

 

帰宅後、母に聞いた。

「○○君は誕生日プレゼントを貰ったんだって。僕も貰えるの?」

しかし返ってきた答えは

「JWは誕生日を祝ってはいけない」だ。

 

彼らの最重要書物である「聖書」にそう記述されているらしい。しかも彼らにとって忌まわしきエピソード付きで。どうやら「やらない」どころか「禁止事項」だった様だ。

 

幼稚園生活は僕が周囲の子供達とは違うのだと思い知る場だった。それも完全に悪い意味で。

 

余談だが、僕は現在まで両親に「誕生日おめでとう」と一度も言われた事がない。生まれてきた事を喜んでもらった記憶もない。

 

 

JWはクリスマスをしない

...まぁクリスマスに限らずバレンタインもハロウィンも何もしません。これらも禁止です。母に「サンタはいない!」と即全否定されました。

 

幼稚園では子供達が

「昨日の夜サンタさんがおもちゃくれた!」

と喜んでいた。

僕は心のどこかで「やっぱサンタさんいるんじゃないかな」と思えた。

 

ある子が僕にサンタさんからプレゼントを貰う方法を教えてくれた。

「靴下に欲しいおもちゃを書いた手紙を入れて寝ると、クリスマスの夜におもちゃを届けてくれるよ!」

 

「だから僕のところにサンタさんは来なかったんだ!」と思った。

僕は1年待った。そして遂に来たクリスマスの夜。僕は母に見つからない様にコッソリと自分の靴下に欲しいおもちゃを書いた手紙を入れ眠りについた。

来るはずもないサンタさんとおもちゃを夢見て...

 

 

小学校はもっと地獄だった

まず辛かったのが1年の時の担任だ。とても高圧的な女性教師だった。そんな担任に母はJWとして必死なので面談で色々話す。

担任は怪訝そうな表情で母の話を聞いていた。内容は「JWとしてやらせない事」だ。

 

その中で記憶に残っているのが「七夕集会に参加しない」だ。

JWは七夕もやらない。多くの子は何も考えずに楽しむであろうイベント事は全て母が先回りしてシャットアウトする。

 

話し合いの結果、全校生徒が七夕集会をやっている間、僕は独りで教室で自習をする事になった。

 

七夕集会当日、クラスのみんなが移動するために立ち上がっても僕は机に着いたままだった。

去っていくクラスメイトを見て、同じ教室で過ごす彼ら全てが別の世界の人間に思えた。

 

窓の外ではグラウンドで全校生徒が輪になって何かやっているのが見えた。

この瞬間に校舎にいるのは僕だけだろうと思うと涙がこぼれた。

 

窓ガラスの向こうの世界に僕は行きたかった。

 

 

どこにも味方はいない

担任は僕にキツくあたった。僕とクラスメイト間で問題が起こると、いつの間にか僕が悪者にされていた。例え完全に相手が仕掛けてきたとしてもだ。

 

本当に学校へ行きたくなかった。

「お腹が痛い!」と仮病を頻繁に使ったが、父は「学校へ行け!」と怒鳴り、何発もビンタを入れて引きずってでも僕を連れて行く。

 

教室に着いて机にうつ伏せて泣いていても誰も優しい言葉なんてかけてくれない。担任も怒りを爆発させるだけだ。

 

担任からはひたすら怒られる。

クラスメイトからはバカにされる。

家に帰っても親に怒られる。

好きなTVも観れない。

おもちゃも買ってもらえない。

行きたくもない集会に連れて行かれる。

 

そんな日々を過ごしていく中で、僕はいつの間にか死ぬ事ばかり考えていた。

 

 

転機は小4

そんな調子で何も楽しくない人生を10歳まで送った。このままだと自分の人生本当にクソなものになると心から感じた。

 

この頃の僕は集会に行くのが本当にストレスで、自分の髪の毛をひたすらブチブチと抜いていた。完全に抜髪癖(ばつもうへき)と言われる精神障害だ。

 

取り返すのはもうしんどい。本当に死のうと思った。

「家のベランダから頭を下にして落ちれば楽に死ねるかな」って、そればかりイメージしていた。

 

そしてある日、簡単ではあるが遺書を書き、いざベランダへ。

遺書の内容は恨み辛みではなく、自責の念を綴っていた。

手すりに手をかけるが、あと一歩踏み出す勇気がない。

 

...どれ位ベランダにいたかは覚えていない。

ただ、出た結論は「死ぬ勇気すらない」だ。

しかし、これがキッカケで何かが吹っ切れた。

「死ぬ気になれるなら何でもできる!」と。

 

 

JWとの決別

僕は勇気を出して母に言った。

「もう集会には行かない」と。

母は泣いた。とてつもなく泣いた。自分で正に「死ぬほど」考えた結論を伝えていたのだが、泣いている母を見ると何か悪い事をしてしまっている気にはなった。

 

いつも父に殴られて泣いている母を見てきたからだ。でも僕の決意は変わらない。

行かないと決めたら心が軽くなった!

清々しさがあった!

こうして10年かけて僕は自分の人生が自由だと初めて感じる事ができたのだ。

 

何を信じるか、拒絶するかを全て強要されてきた人生とはもうお別れだ。

次の日からは人生を取り返す事ばかりを考えていたのだ。

 

 

楽しそうなクラスメイトを観察

JWとの決別を果たしたところで、学校というコミュニティー内での僕の立ち位置が変わる訳ではない。

ヒエラルキーは下から数えた方が明らかに早い。

僕は自分の人生を楽しくするためにはどうすれば良いか考えた。

 

そこで目をつけたのがクラス内で中心になっている人物、つまり「リア充」なヤツらを観察する事だ。

 

大体の共通点は

  • カッコいい
  • 運動できる
  • 頭がいい
  • 家がお金持ち
  • 面白い

そんなところだ。

 

上の4つは無理と判断し、少しずつだが笑いをとれる様に練習していった。

これは今でも活きていると思っている。

 

 

小5で凶暴化する

自由になり、少しずつ明るくなってきた僕は学校が楽しくなってきた。

仲間も少しだができた。

そんな僕の性格が激変するきっかけが訪れる。

 

それは有志で参加する陸上部だ。

小5の時の担任は熱血男性教師で、病弱でひょろい僕に声をかけてきた。

「陸上やらないか?」と。

 

僕は完全にノリで参加する事にした。

確かに「少しは鍛えたい」と願望はあった。

体力のない僕は最初はキツかったが、朝夕毎日休まず参加した。

 

家に帰っても腹筋、背筋、腕立て、スクワットをやりまくった。信じられない位ご飯を食べる様にもなっていた。

 

その結果...小5にしてはムキムキになっていた。腹筋は割れ、腕っぷしで僕に敵うヤツはいなくなっていた。

自信が出てきたのと同時に、性格も凶暴になっていった。

それはJWによって抑え込まれていたもの全てが噴出するかの如くだったと感じる。

 

手始めに僕をいじめたり、からかっていたヤツら全員いじめ返した。暴言だけでは収まらず、蹴る、殴る、首を絞める、髪を掴んで机や壁に押し付ける等...思いつく限りの事をしてやった。

 

彼らも後ろめたさや心当たりがあるからか、おとなしくやられていた。

問題にもならなかった。

 

とても気持ちが良かった!

蹴られたり殴られたり、いじめっ子数人に抑えつけられて辱められたり、石を投げられたり、追いかけ回されていた僕が!

ウジウジと死のうとした僕が!

自分の腕で人生をねじ伏せた!!!

そう感じたのだ。

 

仕返しは決して許されない事だろう。しかし申し訳ないがこの件は僕の今後の人生に大きな自信となった。

正直悪いとはコレっぽっちも思っていない。

それに僕は何もしていない他の誰かをいじめる事は絶対にしなかった。

 

怖いものは無い。気に入らないヤツは怒鳴りつけて睨んでやれば言うことをきく。

親も怖くない。

さすがに母に手をあげる事はしなかったが、気に入らなければ怒鳴り散らした。

あんなに怖かった父もムカつけばぶん殴った。

 

写真を見ると目つきがかなり変わっている。

自信のなさそうな、困ったような表情をしていた幼少期とは違い、殺気に満ちた目つきだ。

 

...完全にやり過ぎた。僕は恐怖の対象となり、また仲間は遠ざかっていった。

 

振り返るとキリがない。

エピソードが書ききれない。

 

 

その後

...垂れ流しの様に書いてしまいました。

その後は自分の性格や行いを調整し、今に至ります。

特別不良になったりはしませんでした。

誘われましたけど笑。

いじめられる側の気持ちも分かる僕は不良グループに入るつもりなんて全くありませんでした。

 

人並みに遊び、笑い、恋をして残りの学生時代を過ごしました。

現在の会社では一生懸命働き、評価はとても高いです。

素敵な妻と娘にも恵まれました。

 

両親とも良好な関係でいます。

父の反対は今はなく、母はJWを続けています。

暫くは親を恨んでいましたが、今はそんな思いは消えました。

母はたまに謝ってきます。

「あの時はお母さんが間違っていた」と。

でも、もう責める事なんてしません。

 

僕って寛大だなぁ。

そしてよく取り返した!

 

...なんて自分で言ってるヤツがいたら気持ち悪いですよね笑!

でも、誰も褒めてくれなかった人生だから、たまに自分で褒めてあげるんです。

こうやって自己肯定感は自分で築きました笑!

 

そして、自分が「こうしてほしかった」を我が娘達にしてあげる日々を送っています。